とある病院に入院中の少年フレディ(島田歌穂)は、もともとは元気いっぱいの少年。常におとなしくしていることを強いられる入院生活が、そんな彼には我慢がならない。入院生活の先輩格の少年ダニエル(堀米聰)と触れ合い、彼に影響されて、小さくてもがんばる「いのち」の営みを、病室から見える楓の葉っぱに投影し、新しい友情を育んだりもするのだが、すぐに終わると思っていた入院生活はなかなか終りを告げない。やがて季節は過ぎて秋の訪れ。春から夏にかけて、あんなに「いのち」の輝きに満ちていた楓の葉っぱたちにも、少しずつ変化が現れ始めて…。

自ら動くことが出来ない原作での葉っぱたちとは違い、本当だったら一日中、思う存分遊び回れるのにそれが出来なくなってしまった少年、という本作での登場人物の設定が、本来の「いのち」が持つ活動的な魅力を一層際だたせてくれる。かつてはあたりまえに、元気いっぱいに飛び回っていた毎日は、決して誰も彼もが無条件に受け取ることのできる権利だったわけではないという事実、本来意識などする必要もない「いのち」の躍動も、実はそれぞれの人に割り振られた「運命」というものの前では、時に儚いものなのだ、ということを理解し、受け入れるのに、「少年」であるというのはあまりに重く、厳しい。

それでも避けられない「運命」を前にしたフレディに伝えられるのは、春に芽吹き、夏に大きくその葉を拡げ、秋に力を失い、冬には力尽きて土に還る楓の葉っぱたちの「いのち」のサイクルの物語。一枚の葉っぱの物語は、その葉が土に還った時に終りとなるのだが、その葉が付いていた樹の物語はまだ終わってはいない。葉の物語は、一度は終わったかも知れないが、ひとつの物語が終わることがすべての終りを意味するのではなく、土に還り、ふたたび新しい葉の物語を紡ぐための大きな力となる。そしてその葉を目にし、その葉に想いを寄せたすべてのものの中では、物語は決して終わることはないのだ。

そしてそれは単に一枚の葉っぱの物語であるだけではなく、さまざまな人と出会い、多くの体験をしてきたフレディにとっても同じことなのだ、ということをおぼろげながらも理解した時、死は自分のすべてを、突然すべて否定してしまうようなものなのではないのだ、というメッセージが伝えられる。ひとつの終りではあっても、それは何か新しい物事のきっかけになるかも知れないものなのだ…。自らに起こったことをすべて受け入れて、死と向き合うフレディの姿に、まばゆい光が当てられる。

死は辛く悲しい。それは避けがたいものであるし、そこをごまかしてもしかたがない。だがひとつの死の訪れがすべての終りを意味するものでもない。ひとつの死という「終り」が、新しい物語の「始まり」にもなりうるのだ、というすべての命に対しての賛歌とともに、「Freddie〜少年フレディの物語〜」はその幕を閉じる。舞台を見つめていたすべての人が、大きな悲しみの底に、小さいけれどもとても強い、希望の輝きの存在を意識したことだろう。
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